― 書けない一行
真司はペンを握ったまま、白紙のページを見つめていた。
「あなたは、今の人生を『選んで』生きていますか。」
答えは簡単なはずだった。
「はい」か「いいえ」。
それだけで済む。
しかし、その一文字が書けない。
もし「はい」と書けば、自分の人生に嘘をつく気がした。
もし「いいえ」と書けば、これまでの人生を否定することになる気がした。
真司は、静かにペンを置いた。
― 答えを急ぐ世界
翌日、街を歩いていると、あらゆるものが答えを急がせていた。
「3分で分かる。」
「最短で成功。」
「これが正解。」
「迷う必要はありません。」
真司は立ち止まった。
いつからだろう。
「考えること」より、「すぐ答えること」の方が評価されるようになったのは。
学校でも。
仕事でも。
SNSでも。
答えが早い人は褒められる。
でも、「良い問い」を持つ人は、あまり目立たない。
― 本当の試験
その夜、『1984』を開く。
今まで導いてくれた文字は、どこにもなかった。
代わりに、最初のページへ戻されていた。
そして、新しい一文だけが現れる。
「ここから先は、本は何も教えない。」
真司は驚いた。
「どういうことだ……?」
ページをめくっても、白紙。
さらにめくっても、白紙。
最後のページに、ようやく一文だけ見つけた。
「ここから先を書くのは、読者である。」
その瞬間、真司はようやく気づく。
この本は、最初から答えを教えるための本ではなかった。
「自分で考える力」を取り戻すための本だったのだ。
― 新しい物語の始まり
真司は白紙のノートを開き、ゆっくりと一行だけ書いた。
「今日、私は一つだけ、自分で選ぶ。」
それは大きな決断ではなかった。
帰り道を少し変えてみる。
スマートフォンを見る前に空を見上げる。
読みたい本を一ページだけ読む。
そんな、小さな選択だった。
窓の外では夕焼けが街を染めていた。
世界は何も変わっていない。
けれど、真司の見え方は少しだけ変わっていた。
そして机の上には、閉じたはずの本が静かに置かれている。
次回 最終話 1984。
