※私、ko_roroが書いてます。
ふと過去を振り返りこんなことを思う時がある。
「あの「無駄」に使ったお金と時間を換金出来たら、いくらになるのだろうか?」っと。
これらの物、時間を最適化したら「どうなるのか」。
的確な男になるのだろう。
今日(昨日)書いた通り職場でトラブルがあるのだけれど、何故かそういったネガティブな刺激の方が心の琴線に触れる。
久しぶりにChatGPTで物語を書いた。
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※以下はChatGPTの文章です。
何となく。
彼は、いつからか「時間」だけを信じるようになった。
朝は最短動線で支度をし、食事は完全栄養食。移動中は倍速の音声で学習し、仕事は効率化ツールで自動化した。無駄な会話は削除、感情の揺れは集中力の敵として切り捨てた。
結果は明白だった。
タイムパフォーマンスは上がり、成果は早く出る。評価も収入も上がり、コストパフォーマンスも改善された。彼の一日は、数字としては完璧だった。
しかし、夜になると、何かが欠けている感覚だけが残った。
かつて彼は、帰り道に遠回りをして小さな本屋に寄った。目的もなく棚を眺め、気まぐれに一冊を買う。読み終えなくても構わなかった。
今は違う。
「読む価値があるか」「要点は何分で吸収できるか」
そう自分に問い、答えが曖昧なものは切り捨てた。
休日も同じだった。
効率的に休むため、回復率の高い行動だけを選ぶ。散歩は運動として、音楽は作業用として、誰かと会うなら明確な目的が必要だった。
ある日、彼はふと気づいた。
「楽しかった」という記憶が、どこにも見当たらないことに。
失敗もしていない。無駄もない。だが、胸が動いた瞬間が思い出せない。
人生は確かに前に進んでいるのに、「味」がしない。
彼は理解した。
時間効率は、人生を早送りする力を持つ。
だが、満足度は速度では増えない。
その夜、彼は久しぶりに何も決めずに外へ出た。
効率の悪い道を歩き、目的のない時間を過ごす。
それは数字にすれば、最悪の選択だった。
それでも、風の冷たさに少しだけ心が動いた。
その瞬間、彼は初めて「遅さ」が持つ価値を思い出した。
人生は、最適化しすぎると、静かに空っぽになる。
彼はまだ間に合うと、どこかで信じていた。
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翌朝、彼はいつもより五分遅く目を覚ました。
アラームは鳴っていたが、すぐには止めなかった。その音を「無駄」と判断する前に、少しだけ耳を傾けてみた。胸の奥に、かすかな違和感が残る。それが嫌ではなかった。
朝食は完全栄養食の代わりに、棚の奥で埃をかぶっていたインスタントコーヒーを入れた。味は決して良くない。だが、湯気を眺める数十秒は、どんな生産性指標にも換算できなかった。
出勤途中、彼は倍速再生をやめた。
無音のまま歩くと、街の音が思いのほか多いことに気づく。靴音、車のブレーキ、誰かの笑い声。今まで「情報量が低い」と切り捨ててきたものばかりだった。
仕事の効率は、少しだけ落ちた。
それでも致命的ではなかった。
世界は崩れなかったし、評価も急には下がらなかった。
昼休み、彼は理由もなく窓の外を眺めた。
雲の形が変わる様子を追い、時間を使っているという感覚が、久しぶりにあった。
その時間は、成果を生まない。だが、消耗もしなかった。
帰り道、彼は思い出す。
昔、なぜ遠回りをしていたのか。
そこに「意味」があったからではない。ただ、気分がそうさせたのだ。
彼はようやく理解する。
人生の満足度は、最適解の連続ではできていない。
説明できない選択、効率の悪い感情、回収不能な時間——それらが、静かに積み重なっていたのだ。
その日から彼は、すべてを変えようとはしなかった。
ただ一つだけ、ルールを追加した。
「効率で測れない時間を、毎日少しだけ許す」
何もしない時間、役に立たない会話、結論のない読書。
それらは彼の人生を加速させない。
だが、止まりかけていた心を、ゆっくりと温めていった。
彼はまだ、効率を捨てたわけではない。
ただ、効率だけでは届かない場所があると知った。
人生の満足度は、
早さではなく、立ち止まった回数で、静かに増えていくのかもしれない。
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だが、物語はそこで終わらなかった。
効率は、思想ではなく習慣だった。
一度身についたそれは、善悪を問わず、彼の判断より先に体を動かす。
朝、彼はコーヒーを入れながら無意識に思う。
「この時間、短縮できるな」
音楽を流そうとしても、指が止まる。
「集中度が下がる」
効率化は、敵として現れない。
正しさの顔をして戻ってくる。
仕事中、同僚の雑談に混じろうとするが、頭の中で警報が鳴る。
「今は非生産的」
それを無視しようとすると、胸がざわついた。
効率を裏切る行為は、罪悪感を伴うようになっていた。
休日も同じだった。
何もしないと決めたはずなのに、手はスマホを探す。
記録、最適化、改善点。
気づけば、**“休むための計画”**を立てている自分がいた。
彼は苛立つ。
なぜ、こんなにも苦しいのか。
効率は彼を成功させた。
間違ってはいない。
それなのに、心は抵抗する。
ある夜、彼は思考を書き出した。
効率化がもたらしたもの、失ったもの。
驚くほど、前者は言語化でき、後者は曖昧だった。
それが、問題の核心だった。
効率は「測れる」
満足は「測れない」
測れないものは、改善も評価もできない。
だから彼は、無意識に測れる世界へ戻ろうとする。
彼は気づく。
自分は怠けたいわけでも、堕落したいわけでもない。
ただ、数値化できない自分を許す練習をしていないだけだと。
それでも、習慣はしつこい。
一日戻れたと思っても、次の日には元に戻る。
効率化は、戻る場所がある人間ほど、強く引き寄せる。
彼はようやく覚悟する。
これは「やめる」戦いではない。
共存するための、長い調整なのだ。
効率を手放さず、支配もさせない。
習慣を否定せず、主導権を取り戻す。
それは、数字で進捗が見えない、
もっとも効率の悪い挑戦だった。
そして皮肉なことに、
彼はその不確かな戦いの中で、
ほんのわずか——生きている感覚を取り戻し始めていた。
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ある日、彼のもとに、突然大きな問題が降ってきた。
それは彼が引き起こしたものではない。関与もしていない。ただ「そこにいた」という理由だけで、処理役に回された。
会議は増え、説明は二転三転し、責任の所在は曖昧なまま時間だけが削られていく。
彼の頭の中では、効率化の警報が鳴り続けていた。
「これは本来、必要のない作業だ」
「自分の人生にとって、何の価値もない」
心は荒れた。
計画は崩れ、ルーティンは乱れ、積み上げてきた“最適な一日”は粉々になった。
怒りと虚しさが混ざる。
なぜ、自分が。
なぜ、こんな無駄に。
その処理は、想像以上に長引いた。
人の感情に配慮し、言葉を選び、衝突を避け、何度も同じ説明を繰り返す。
成果は見えない。
終わっても、達成感はない。
そして、ふとした瞬間が訪れた。
資料の修正を待つ、数分の空白。
画面を見つめることも、次の最適解を探すこともできない、どうにもならない時間。
彼は、何年ぶりかに「ただ座っている」自分に気づいた。
そのとき、思った。
自分の人生は、いつから「自分で選べる時間」だけで構成されていると思い込んでいたのだろう、と。
現実の人生には、
選んでいない出来事、
避けられない混乱、
意味の見えない役割が、必ず入り込む。
そして皮肉なことに、
その制御不能な時間の中でしか、見えないものがあった。
彼は気づく。
効率化は「自分がコントロールできる世界」では強い。
だが、人生の大半は、そもそもコントロールできない。
無駄だと思っていたこの時間は、
彼に「自分の限界」を教えていた。
完璧に回せなくても、
最適でなくても、
世界は終わらない。
その事実に、心の奥がわずかに緩んだ。
問題が完全に片付いた頃、彼は疲れ切っていた。
だが、不思議と以前のような虚無はなかった。
効率を奪われた一瞬の隙間に、
彼は見つけてしまったのだ。
人生は、
自分の計画通りに進まない時間によって、
静かに形作られている、というヒントを。
それは、どんな自己啓発書にも載っていない。
だが、確かに彼の中に残った。
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以上です。
読んでくれてありがとう。
またね。
